このたび、熊本を中心に起こった震災は、またも多くの人命を奪い、日々の報道ではその被害が画面越しに伝えられている。
お亡くなりになられたみなさまには哀悼の意をささげますと共に、被災されたみなさまには心よりお見舞いを申し上げます。
数年前。私も立場としては被災者でした。
しかし、テレビで伝えられるような被災者という形を見れば、違うのかな、とも思っています。
2011.3.11には私は福島にいました。
住んでいました。
性別が分かることから、あまり言いたくはないですが、お腹には子どもがいました。
今も思う。
震災や事件・事故があったとき、誰を一番に考えるべきなのか。
「子どもがいるからあの家庭」
「高齢者だから大切にしなきゃ」
「妊婦だから」
「怪我しているから」
いろんな理由があって、最優先にしなきゃいけない状況があって、
早く戻りたくて
早く助けてほしくて
早く解放されたくて
しんどくてしんどくてしんどくて
じゃあ誰を優先にするの?
誰が我慢するの?
誰が動くの?
動いていれば支援者で、
施しをもらえば当事者で、
支援に動いた人は行動力があって、
支援できなかった人は・・・
私は当時お腹に子どもがいて、安定期に入る前で、
支援に動きたかったのに、
小さな命を優先しなきゃいけなかった。
でも、自分より大変な人がいて、苦しんでいる人がいて、
それを助けに動けない自分がしんどかった。
福島にいるから被災者って言われるけど、
もっとしんどくて、もっと助けなきゃならん人がいるのに、
何もできない。
結果、のうのうと生きている側になる。
自分の私財や仕事さえも手放して支援に回っている同年代がいるなかで。
当時
米屋の義父、保育者の義母、介護職の主人と共にいた。
3人とも、その当時必要な仕事をしていた。
だから、私は食材を買いに走らなくてはいけなかった。
自らそうした。
「放射能の雨が降るから妊婦は出たらいけない」と言われても
黙っていられなかった。
でも、外に出たらみんながみんな、そうやって動いていて、
「妊婦だから」ということもなく、
必死で生きるための食材や飲料水を集めていた。
小さな子どもを抱えたお母さんもいた。
1人で買えるものは限られているから、
ヨタヨタしたおじいさんとおばあさんが寄り添いながら買い物にきていた。
長蛇の列で、赤ん坊が泣いても移動できないお母さんもいた。
みんな生きるために、守るために必死だった。
ガソリンも、物資も、なかなか届かなかった。
スーパーの食糧もガソリンも
余裕があって長い時間並べる人は確保できた。
でも、仕事をしていたり、小さな子供を抱えたお家は大変だった。
誰が大変とか
誰を優先にとか
誰がえらいとか
誰を守るとか
考えられない状態なわけじゃない。でもみんな大変。
そこをイメージできるかが大事なのかな・・・。
辛いのはお互い様で、
一緒に生きていられことがおかげ様だっていうことは
最近やっと気づけた。
もうこれ以上被害は出て欲しくない。
避難所でいることを避けて、車上生活していた方がエコノミー症候群で重体だと知った時、なんともいえない気持ちになった。
戻れない自宅、しんどい避難所。
気兼ねなく休めるのが車だったのかな・・・。
気を遣わないための空間。
休まる環境が必要なんです。
より早い復興を心よりお祈り申し上げます。