FULL MOON

万人のための価値ある自分になろうとしなくていい。

たった一人にでもいいから、その人に対して『あなたがいてくれて本当に良かった。出会ってくれて有り難う』と言える自分でいたい。

本気で、たった一人の人の人生で、一瞬でも『あぁ、自分は此処にいて良かったんだ』と思わせられたら、それだけで自分の価値がある。

全てに価値がある。全てに意味がある。

戯言劇場

自分と同じ年の人が何をして生きているか考えた。


自分は人とは同じことができない。


みんなが出来て自分が出来ない状態が苦しかった。


だれも自分なんか分かってくれない。


いつだって周りと打ち解けられなかった。


学校に行けない自分は何なのか。


大人に言われるのは社会のレールに乗っかる必要性ばかり。


どうして重要なのか、じゃあそれしか生きる術はないのか、自分ってなんなのかを考える。


「学校で勉強しないと立派な大人になれない」――じゃあ立派な大人ってなんですか?


「幸せな結婚はできないよ」――結婚なんかしなくていい。


「あなたを見ていると恥ずかしい」――じゃあいっそ消えてやろうか。


「まともな人生は歩めないよ」――もう、まともじゃないから今更無理・・・。



どんなに考えようと、どんなに悩もうと、消えない不安があった。


他者と自分をつなぐ絆なんかわからなかった。


人間というのは表の顔と裏の顔があるのが普通で、腹で抱えていることは違うんだと思ってた。


自分は厄介者だと。


誰かと目線を合わせられるような、その人が求める良い子になるクセがついた。


軽蔑の眼ではなくて、愛情を向けてほしくて・・・。


でもすぐに、それが自分という個人に向けられたものではないと気付いた。


本当の自分ってなんだろう。


傷ついたとき、誰に言えばいいのか。


悲しんだ時、誰に言えばいいのか。


頭で浮かぶ人に、自分のことを伝える妄想をしてみる。


それも全てバッドエンドに終わる。


あなたが大好きだという私は、どんな私ですか?


「みんな違ってみんないい」って言ったあなた。


「みんな違ってみんないい」と教えてくれたあなた。


でも、いつか、両手で抱えきれなくなった私を置き去りにしていくんじゃないかと思う。



小さなころ、もっと甘えたら良かったのかな。


あのとき、恥を捨てて頼ったら、何か変わったのかな。


誰かに頼るとき、捨てられる覚悟をしなくてはいけないと思ってしまう。


頼って、そして拒絶されたとき「大丈夫、想定内だ」と自分で笑おうとしてしまう。


「わかっていたことなのに、どうして悲しむ必要がある?」と自分を笑おうとしてしまう。


恐いんだ。自分が変わらなきゃ周りは自分を愛してくれないのだと自覚することが。



そのままの自分を受け止めてくれたこと、ありますか?


ダメな私でもいいから、愛してくれたことありますか?


助けてって言えないのは、助けてもらえると思えないから。


困ってると言えないのは、自分を整理する術がわからないから。


「精神科でも行ってきたらいい」とか「専門家なら応えられるよ」と言われても、そこは非現実的な空間であって、リアルな話は無理なんです。できないんです。





※ これは私が昔考えたことです。(おおよそ)思い出して、当時の感覚で書いてみました。

  私にも暗黒時代があります。その後遺症のようなものもあります。

それにどう向き合っていくのか、発信していくこともありなのかなって思いました。

「自分だけがこんなことを考えているんだろうか」と思っている人がいたら、知ってもらいたいですね。

私案:居場所をつくりたい#話し相手がいない#ストレスフルな現代人#ひきこもり(元当事者、元不登校も含む)等

不登校でも大丈夫な居場所にはフリースクールというものがある。


でも、この土地にはひきこもりとかの居場所がない(当事者会はある)


で、思うところは、


元当事者の居場所も必要だよなっていう。


むしろ元不登校の居場所ってあってもいいよなって。


不登校やひきこもり経験がなくても、


今精神的にひきこもりかけている人もいられる場所とか。



っていうのも、私の大切な人に不登校経験者もいて。



ついでに小中高大からの就職・・・を経たあとに職場の人間関係が凄まじく、


必死こいて頑張ったけれどダメで、


転職するものの同じような状況が多く、


精神的なダメージをどんどんため込んでしまって


その結果、対人恐怖症(社会不安障害)や


電話恐怖症になってしまった人もいるんです。



前向きに頑張ろうとしても、


誰にも相談できない・吐き出せない状態が続くのは


頑張り・踏ん張りがきかないと思うわけです。



月に1・2回の土曜日とかの開催とかで


大丈夫な雰囲気の居場所があれば


そこで繋がりがあれば、


相手を受け入れることで自分を受け入れたり、


自分を出すことで相手を知ったり


そんなユニバーサルな空気が出来るのかなって思ったり。



私自身、不安症やお悩み気質は昔からあって、


「いいこちゃん」と言われたときは


「知ってたかも」と思ったわけですが、


「ひきこもり当事者」とかのような


当事者呼びをしている空気感が


逆に疎外感でもあるんです。



「私みたいなたまに悩むくらいの人はいてはいけない」


って言う方もいたり。



自分の話を出せる空気・自分の経験や考えを否定しない相手・


どんな自分だって大丈夫だと言ってもらえる居場所が


あってもいいのかな・・・・とも思います。




未だ私案どまりですがね。




仕事をしててもしていなくても


恋人がいてもいなくても


家庭を持っていてもいなくても


一人暮らしでも実家暮らしでもシェア暮らしでも


LGBTでも


対人に関する不安感や悩みなんかを


「あるある」って話せるような


そんな居場所が合っていいと思う、今日このごろ。




相手は相手――


自分は自分――


そういうスタンスでありながら


「そういう気持ちもあるのか」


「そんな考えもあるのか」


「そんな世界もあるのか」


という気づきでもいいけど


「ここにきている人はどんな人も素敵」と思えるようになったら


人と関わるってあったかいなって思えたら


そんな関わりを持てる自分って素敵だなって思えたら


ちょっとは人生にプラス要素が加わるんじゃないのかなって思う。




居場所と言えど、


合コンとかさ、婚活パーティーとかじゃなくてね。



本当に単純に


「味方」「仲間」がいっぱいいるような


そんな空気感のある場所が欲しいと思っていたり。


不登校経験者の会、ひきこもり経験者の会、女子会、男子会、20代(だと思う人)の会、30代(だと思う人)の会・・・とか他何があるかしら


ちなみにひきこもり当事者の会はある。



まだまだ私案だけどね。


無償

相手に対する好意、親切。


それらを全て


無償で出来る人ははどのくらいいるのか。


もしくは


無償でしてもらえる人はどのくらいいるのか。


「タダより高いものはない」


なんて言葉があるけど、


無償より高価な、ハイレベルのものはないと思う。


だって、


無償な場合


無償な好意や親切は


向けられる相手がそのくらいの価値がある人か


そのときの行為にそのくらいの価値や意味があるか、


ってな具合。



無償って


「償いが無い」って書くけれど


罰がないだけで


とっても高価なものだと思ってしまう。



無償で何かをするとき、されるとき、


心からの感謝って


不可欠なんだとも思う。