FULL MOON

万人のための価値ある自分になろうとしなくていい。

たった一人にでもいいから、その人に対して『あなたがいてくれて本当に良かった。出会ってくれて有り難う』と言える自分でいたい。

本気で、たった一人の人の人生で、一瞬でも『あぁ、自分は此処にいて良かったんだ』と思わせられたら、それだけで自分の価値がある。

全てに価値がある。全てに意味がある。

価値観・言葉遊び・方向転換3


他人の評価が自分のステータスであった。


他人に褒められることは有り難いことでもあった。


非難されたときは、いつか見返すときまで耐えた。


10代前半のころから母に


『家族と言えど他人だよ』とか


『子どもだからって傲慢すぎるよ。感謝しなさい』とか


『不平・不満・泣き言・愚痴・文句は言わないこと。考えないこと』


と教えられてきた。



その意味は知っていた。



家族と言えど、血が繋がっていても、


それは自分とは違う他者であり、大切にすべきであること。




子どもといえど、周囲に守られ大切にされている自覚をもち、


万物に感謝すること。




他者に対する負のエネルギーの投げかけはつまらないもので、


心にそれを思うことをするだけでも自分自身の思考を捻じ曲げてしまうが故、


負の思考を廻らせないこと。




ーーー全てに感謝すること。




母の言葉は、私にとって、その当時の私の年齢にとって


相応の言葉ではなかった。




しかしその裏(なぜ私にその話をするのか)というのは


未熟な自分の思考であっても考えることはできた。




それを飲み込み、腹に落とし込み、自分の糧として


自分自身を構成し、エネルギーとして活用するということは


多少の苦しみや寂しさや孤独感があろうと


耐えうるものであった。




母が意図するものをくみ取る癖習慣があったのかもしれない。


しかしこの考えを与えられたお蔭で、私が生きてこられたのは事実だ。




私自身の思考はいつだって他者からの称賛か非難を生む。



『なんでそんな考え方ができるの??』



と問われる。





この考えが私を助けてくれた。この考えによって私の自己肯定感は精製された。




しかし、


この考え方が全く受け入れられない人もいる。



そして言われる。




『無理してるんじゃない??』



『大変だったね。』



『辛かったね』



『甘えたかったね』






正直、無理もあったし大変だったし、辛かったし甘えたかった・・・


・・・・という時もあった。



でも、100パーセントそういう人生ではない。




私の生きづらさは『甘えられない』『頼れない』ではあるが、


それがいつもというわけでもない。



自分でその大変さを感じていても決断したり、


自分を押し殺していたとしても気持ちを切り替えたり、


そしてその先にある達成感・信頼感・安心感・幸福感、


そして感謝感を得てきた。




結局、他人からの評価というのは、


自分の精神状態が健康のときはさほど気になっていないのだ。




それが、立て続けに雪崩のように事態が急変した今だからこそ


薄皮の下の生のどろっとしたところに突き刺さる。




それは、言葉遊びでしかないと思う。




結局は自分のことは自分で決めてきたから、


その自分に自信を持ってきたから、


たとえ過去をとやかく言われて記憶の書き換えが起こっても


過去の自分の決断や覚悟を


今の自分が揺らがせてはならないのかもしれない。




100%他人から称賛される自分でいられるはずはない。


非難も称賛もあっていい。





大切なのは、


『やっぱりこれでいい』と自分で思えるか。


『私にはこれが必要だ』と自分で納得できるか。


『全てに意味があって、全てに価値がある』と人生を肯定できるか。


『今を活き生きる』ことによって、全ての過去を肯定すること。





これに尽きると思う。


これが私の壁を超えるための価値観作りであり、


他者の言葉から考えた自分の言葉遊びであり、


人生よりよく生きるための方向転換なのだと、





・・・・書いていて実感した。

価値観・言葉遊び・方向転換2


続きです。



それがね、人間不思議なもので、


とっことん落ち込んだ時っていうのは


普段はスル―できる言葉さえも


致命傷に陥ったりするんです。


心の致命傷。


良く精神病系は「心の風邪」などと言いますが、


私も今回、自分の心の回復に2週間以上かかっています。


いつもなら長くても半日だったのに、


立て直しにとても時間を要している。





今回は


周囲に多大なる迷惑をかけ、


恩人に頭を下げさせ、


パートナーにも頭を悩ませ、パートナーの心を病ませ、


・・・そして、応援したいと思っていた人、


味方でいてあげたいと思っていた人々に


二度と会えなくなった。




もちろんどう考えても自分が悪いこと。



詳しくは書けないが、


(犯罪とかではないものの、)


やってはいけないことであった・・・・




そんな折、師匠が


「(私のこと)完全にいいこちゃんです」と言い放った。




※ いいこちゃん、とは?

もともと尾木ママこと、尾木直樹さんがテレビ番組の中で表現した言葉・・・らしい。

いいこちゃん症候群。幼少期そばにいる影響力の強い大人(たいてい両親など)の顔色を伺い、大人にとっての「いい子」を演じて意識してきたため、その子が大人になったときに自己を表現できなかったり、他人の評価に左右されてしまう。



――ざっとこんな感じ。



師匠に『いいこちゃん』と称されたとき、私の精神状態はずったぼろであった。


例えるならば外の殻が割れた生卵。


薄皮が丸見えで、中の不完全な自分が溢れる寸前だった。


自分では良かれと思っていた性格や方針、価値観、その全てが否定されたような感覚であった。



そのような状態は決して健康とは言える状態ではなく、


いつもならば笑い飛ばせる状態すらも


私の精神状態をさらに悪化させる火の粉でしかなかった。



一瞬で火傷だ。一生残る傷痕になるものばかりで溢れていた。




『(これ以上何もいわないでくれ)』



師匠に直接そんな言葉も言えないのは、やはり自分が“いいこちゃん”だからなのか、


それすらもわからないほどだった。

価値観・言葉遊び・方向転換1

さて。


今回は少々過激な言葉を使う可能性があります。


いや、どうだろう?


うん、わからない。






ここに書くのは、私自身の考え方です。




私の考え方は、自他ともに認める偏りがあります。


そしてその偏りを自覚していることによって、


自己の肯定を図った場合、


他人から称賛or非難のどちらかを受けます。




他者からの共感は難しいのかもしれません。



そしてそれも私の生きづらさの一つでもあります。



私の生き方自体を他人に説明し、


そのときの気持ちは


人間臭くないことが多いそうです。


そうすると、


他人から神のように称賛されるか


偽善者のように非難されます。




正直ね、そんなんは気にしていませんでした。





今までの人生で、自分良ければそれで良し主義でしたし、


他人に称賛か非難をされたって、


【全てに価値がある。全てに意味がある。】って主義だったので、


自分の目線、方向性をまっすぐもっていたわけです。



自分になにか苦しいことが起きようと・・・。