他人の評価が自分のステータスであった。
他人に褒められることは有り難いことでもあった。
非難されたときは、いつか見返すときまで耐えた。
10代前半のころから母に
『家族と言えど他人だよ』とか
『子どもだからって傲慢すぎるよ。感謝しなさい』とか
『不平・不満・泣き言・愚痴・文句は言わないこと。考えないこと』
と教えられてきた。
その意味は知っていた。
家族と言えど、血が繋がっていても、
それは自分とは違う他者であり、大切にすべきであること。
子どもといえど、周囲に守られ大切にされている自覚をもち、
万物に感謝すること。
他者に対する負のエネルギーの投げかけはつまらないもので、
心にそれを思うことをするだけでも自分自身の思考を捻じ曲げてしまうが故、
負の思考を廻らせないこと。
ーーー全てに感謝すること。
母の言葉は、私にとって、その当時の私の年齢にとって
相応の言葉ではなかった。
しかしその裏(なぜ私にその話をするのか)というのは
未熟な自分の思考であっても考えることはできた。
それを飲み込み、腹に落とし込み、自分の糧として
自分自身を構成し、エネルギーとして活用するということは
多少の苦しみや寂しさや孤独感があろうと
耐えうるものであった。
母が意図するものをくみ取る癖習慣があったのかもしれない。
しかしこの考えを与えられたお蔭で、私が生きてこられたのは事実だ。
私自身の思考はいつだって他者からの称賛か非難を生む。
『なんでそんな考え方ができるの??』
と問われる。
この考えが私を助けてくれた。この考えによって私の自己肯定感は精製された。
しかし、
この考え方が全く受け入れられない人もいる。
そして言われる。
『無理してるんじゃない??』
『大変だったね。』
『辛かったね』
『甘えたかったね』
正直、無理もあったし大変だったし、辛かったし甘えたかった・・・
・・・・という時もあった。
でも、100パーセントそういう人生ではない。
私の生きづらさは『甘えられない』『頼れない』ではあるが、
それがいつもというわけでもない。
自分でその大変さを感じていても決断したり、
自分を押し殺していたとしても気持ちを切り替えたり、
そしてその先にある達成感・信頼感・安心感・幸福感、
そして感謝感を得てきた。
結局、他人からの評価というのは、
自分の精神状態が健康のときはさほど気になっていないのだ。
それが、立て続けに雪崩のように事態が急変した今だからこそ
薄皮の下の生のどろっとしたところに突き刺さる。
それは、言葉遊びでしかないと思う。
結局は自分のことは自分で決めてきたから、
その自分に自信を持ってきたから、
たとえ過去をとやかく言われて記憶の書き換えが起こっても
過去の自分の決断や覚悟を
今の自分が揺らがせてはならないのかもしれない。
100%他人から称賛される自分でいられるはずはない。
非難も称賛もあっていい。
大切なのは、
『やっぱりこれでいい』と自分で思えるか。
『私にはこれが必要だ』と自分で納得できるか。
『全てに意味があって、全てに価値がある』と人生を肯定できるか。
『今を活き生きる』ことによって、全ての過去を肯定すること。
これに尽きると思う。
これが私の壁を超えるための価値観作りであり、
他者の言葉から考えた自分の言葉遊びであり、
人生よりよく生きるための方向転換なのだと、
・・・・書いていて実感した。